一般社団法人半導体産業人協会


2015年秋季工場見学会報告
-中国/大連・旅順・瀋陽・長春訪問記-

2015年11月11日更新

はじめに

2015年の終戦の日はマスコミの戦後70年の特集記事が並び、昭和20年8月15日が、敗戦=終戦とはいうものの、その後の日本の復興と目覚ましい発展という、我が国の再出発と呼ぶにふさわしい日であったことを思い出させてくれる。

また、日本経済新聞の “私の履歴書” 掲載の方々のなんと多くの方が満州・朝鮮からの引揚者であることか。
今年の中国東北地方(満州)への旅行は7組の夫妻を含む19名の参加となり、諸事情で断念された方を含めて関心の高さがしのばれた。

参加者には満州生まれや、幼少期を過ごされた帰国子女が実に6人も含まれていた。
今回は大連、長春、瀋陽の三都市への訪問となった。日程の都合でハルビンへ立ち寄れなかったのは残念だったが、 皆さんの心がけのお蔭で天候に恵まれ、見学先、バスの中、会食と楽しい会話と、素晴しい時間を過ごすことができて、フル・アテンドしてくれたガイドの劉毅さん、長春のガイドの宗さん、それに安全運転に徹してくれた運転手の皆さんに多々謝々!
しかし、皆さんの驚くべきバイタリティと多能なバラエティには文字通り感服!感謝感激!

成田から大連へ

東京成田国際空港TYO-NRT10;10(NH903)12;15大連周水子国際空港

大連

前夜、大雨の東京から大連へ、大連は快晴である。
大連の空港では今回の旅行にフル・アテンドしてくれる劉毅さんが出迎えてくれて單さんのバス運転で市内へ向かう。


―大連空港で出迎えの劉さんと市内へ―

アルパイン大連R&Dセンター見学

最初の訪問先は市内のソフトウエア・パークにあるアルパイン大連R&Dセンターである。

事前に橋本理事長からアルパイン本社へ見学のお願いをしてあり、会社へ着くと田村孝幸総経理と管理部総経理助理の韓さんが出迎えてくれた。
“歓迎!半導体社会人協会” のスライドのもとで会議室で総経理自らのプレゼンテーションに工場見学と2時間もの時間をとっていただき、Q&Aでは昨今の中国の事情まで説明してくれた。

アルパイン大連R&Dセンターとして、Vision2020“AOCHR中期事業方針”を定め、日本語教育、ステージ別マインド教育、レク活動で離職率の低下、ワンチーム化を図っている。ゴミ拾いや忘年会ダンスなど迫力満点のイベントが並んでいた。皆さんの顔が真剣である。

オーディオ/ナビのソフト開発や、ホンダ等自動車産業のOEM製品が多いが、中国コストアップ、円安については円換算しない、コスト/価格の低下、等々発想転換を図って自立している、と心強い発言があった。


―アルパイン大連R&Dセンターにて―


春餅料理の夕食と中国雑技団のショー

少し早目の夕食は、春餅料理である。
19人が揃って座る大きな円テーブルの中華料理は将に壮観といっていい。女性たちが多いのもいい。

夕食後、バスで別のオペラ座のような劇場に案内されて別室で暫し待機していると、数人の顔に京劇風の化粧をした踊子、芸子さんがやってきて、伴奏に合わせて踊りだした。
結構 面白く皆さん夢中になってみていた。


―大地春餅での春餅料理の夕食―


―中国雑技団のショーを楽しむ―


―中国雑技団のショーを楽しむ―


―中国雑技団のショーを楽しむ―


旅順の観光

ホテルから旅順まで1時間ほどの行程だがラッシュを避けて朝早く出る。大連の西のソフトウエア・パークから広大なハイテク・ゾーンが延々と続く。旅順は世界的にも有数の軍港であり、写真撮影や立ち入りも制約を受けるという。
坂の多い清潔な町である。白玉山に着いたが、生憎ケーブルカーが補修中で運転中止。ここの見学は断念して203高地へ向かう。

乃木将軍と広瀬大佐の旅順港でのロシア基地攻略の話は日本近世史を復習するようなものである。日露戦争の勝利からから第一次大戦を経て柳條湖事件(1931.9.18)から満州事変へ、満洲建国宣言(1932.3.1)、盧溝橋事件(1937.7.7)により日中戦争が始り、第二次大戦へ。
訪問先でいつも出てくる中山広場、中山大路はご存じ中華民国初代大統領 “孫文”の名に由来する。
1920年代から国民党と共産党の抗争は激化してきていた。図らずも日本の歴史、日中の歴史をひもとくことに相成ってしまった。戦後70年の今、とんだ脱線をしたことをお許しあれ!


―203高地記念と大砲―


―203高地と遠く旅順湾を望む―


―白玉山を背に/旅順駅―

乃木将軍とロシアのステッセル将軍が戦争処理で会見したのが “水師営”である。
旅順博物館には大谷光瑞がシルク・ロードから収集してきた男女のミイラが健全な形で保管されている。
昼は旅順レストランで郷土料理をご馳走になった。


―旅順博物館/旅順レストランの郷土料理―


―水師営/会見所―


大連の観光と産業

遼東半島の南端に位置して東に黄海、西に渤海、南に海を隔てて山東半島を望む大連は、気候温暖で中国でも住みやすい街の筆頭に位置し、香港と並び称されるという。
日本、韓国、ロシアの外国企業が進出しており英語よりはこれらの言葉が優先されるという。
ロシアによって町の基礎が築かれたので今でもロシア風の建物が多く残っている。

大連は造船工業、ソフトウエア産業、観光産業、港湾貿易の街であるが、往時の満鉄の本拠地であり、幾多あるヤマトホテルの本拠である。
大連賓館(大連ヤマトホテル)は中山広場にいまも居座り、旧満鉄本社や満鉄病院も今なお機能している。
旧・満洲における満鉄や満州軍の役割は指導力、経済力の双方で強大な影響力を持っていたことが、今日でも推測できる。


―大連賓館(旧ヤマトホテル)―


―旧ヤマトホテルの喫茶店―


―満鉄本社と満鉄病院―

ホテルは“メルキュア大連”に2連泊したが、ダウンタウンの南東で30分も歩けば“老虎灘海洋公園”に出る。
今回の旅行は毎日 早朝出発である。7時前にはホテルを出るスケジュールで、新幹線は大連北駅から出るのでホテルからは少し距離がある。
ここで劉さんが大西さんがいないと青くなっている。6時に一人でチェックアウトしてホテルを出て行ったという。
携帯電話で無事が確認はされたが、上野駅を模して建造された“大連駅”を、昨夜、バス社内から撮影しようとしたが光に反射されてうまく映っていなかったので今朝、大連北駅への道すがら大連駅へ立寄っての撮影に及んだらしい。とんだ一幕ではあったが。
大連北駅は結構遠い。広大な新幹線の駅舎が見えてきて無事に時間に間に合った。


―天天漁港と食事風景―


―大連名物の海鮮料理―


―大連のロシア風情街―


大連08;35(新幹線G8005)11;42長春

途中、麦畑、とうもろこし畑が延々と続く中を広大な満州平野を走り抜ける。

長春訪問の印象

長春駅の北口に現地のガイドの宗さん(運転手 趙さん)
がバスで迎えてくれた。午前中にかなりの雨が降ったようであちこちに水溜りができていた。市の中心である南口に出るまで車が混んで動かない。

駅の近くは地価が高いため再開発が進まず、最近になってやっと当局が再開発を開始したとか、随所に日本時代の建物その取り壊しの様子が見て取れた。


―長春への新幹線G8005―

人民大街(中央通り)に面してはスマホや家電量販店らしき喧騒な商店が続いていて街の風格がない。少々がっかりである。

長春の特徴

自動車産業、映画産業(満映)、みどりの都市、文化都市(大学の街)、が4つの特徴だとガイドさんの説明である。あとの3つは日本時代の素晴らしい遺産であるとか。
“自動車産業”は、哈爾賓(はるぴん)の“航空機産業”、大連の“造船産業”とともに中国でも東北地方の3大産業と並び称されているという。
映画産業は“満映”によって興された。
ご存じの元・憲兵大尉甘粕正彦の執念の産物である。“主義者殺し”の烙印を背にした男は満州に渡り闇世界に君臨した。
往年の満映花形スター“李香蘭” (山口淑子)を売り出した。

長春市内観光をする。人民広場(大同広場)から牡丹園、文化広場を経て旧・満州国の官庁街、満州国政府の主要な建造物を巡って見物。偽満州国務院の建物は今も吉林省の役所、或いは吉林大学はじめ大学、病院として活用されている。
ホテルで遅めの昼食をとる。東北料理とかで薄味の好い味である。
チェックインしてから長春駅の東にある“偽満皇宮博物院”へ出かけて見学をする。


―中日友好酒店とランチ―


―偽満洲国政府・吉林医科大学―

偽満皇宮博物院

清朝最後の皇帝“愛新覚羅溥儀”が満州国皇帝に即位したときの仮御所で、建造に着手した新御所は、結局 未完成だったため、溥儀は殆んどの日々をここで過ごしたという。
南湖公園の散策を予定していたが小雨がぱらつき始めたのでホテルへ戻り、暫時休憩して夕食のレストランへ出かけた。


―偽満皇宮博物院―


―偽満皇宮博物院―

長春料理

街中にある “向陽屯飯館”の2階で2つに分かれて丸テーブルを囲んだが、なかなかのいい味で、今回の旅行中では一、二の味だとの評価であった。

中日友好酒店(長春)泊
戦前の建物かと思ったが、1073年ごろの建築という。


―長春料理 向陽屯飯館―


長春08;21(新幹線G8006)09;45瀋陽

瀋陽訪問

今日はガイドも、バスの運転手も劉さんである。
遼寧省の省都である瀋陽(沈阳)は東北3省のうち最大の美しい街である。女真族のヌルハチが清国を治め都とした。
瀋陽はかつて石炭(撫順)、鉄(鞍山)、鍾乳石(啓林など)の鉱工業で栄えたが、今は金融やハイテク産業で賑わっている。

瀋陽市内観光

長春駅から瀋陽北駅へ到着して、広大な北陵公園を散策した。北陵公園は昭陵といわれ、清太宗と后孝瑞文皇后の陵墓で方城がその中心で、さらに宝城があって万里の長城のように防壁となっている。

膳之坊中山閣で昼食を摂ったが野菜中心の薄味でなかなかに旨い食事であった。


―北陵公園―


―北陵公園―


―膳之坊中山閣でのランチ風景―


―遼寧賓館(奉天ヤマトホテル)―

瀋陽故宮

清朝初期の皇宮が瀋陽故宮で女真族国家の後金が1625年瀋陽へ遷都した際に建立した宮殿で、清の太祖ヌルハチとその子、太宗がここで暮らした。
北京へ遷都してからも康熙帝や乾隆帝などの歴代皇帝がこの地へ行幸しているという。
北京故宮はここの10倍の規模というし、価値ある文化財は臺灣故宮博物院へ持ち去られているのはご存じの通りである。


―瀋陽故宮―


―瀋陽故宮―

張学良旧居

その後、瀋陽故宮に程近い張氏帥府博物院になっている張学良旧居を訪ねた。父の張作霖も住居、事務所として使用していたという。
そのあと瀋陽駅に近い中山広場へ向かった。毛沢東がタクシーを呼んでいる仕種という銅像が建っていて、旧満州時代の建物を見ながら散策して広場に近い“假日酒店”(Horiday Inn)へチェックインして夕食のレストランへ向かった。餃子料理である。


―張学良旧居―

餃子料理

ホテルへ着いた後、中山広場へ近いので三々五々散歩したが、満鉄病院の筋向いに、ケーキ屋、パン屋にスタバが並んでいるので、どやどやと10人近くが入り込んでパンやケーキを買い、コーヒーをテークアウトしてそれぞれホテルの部屋で楽しんだ(ことだろう)。

最終日も5時半モーニング・コールで空港に向かい全員が無事に帰国できた。
劉毅さん、お世話になりました。 多々 謝々!


―興隆軒で海鮮餃子を楽しむ―

瀋陽桃仙国際空港10;45(NH926)14;50NRT東京成田国際空港


中国的スケールとは

土地も広く、人口も多いせいではあろうが駅や道路のスケールは桁が違う。
新幹線は旧満鉄を踏襲しているので標準軌であるが、駅舎の規模は広さ、高さともにJRに比し桁外れである。
瀋陽も長春も日本でいえば県庁所在地であるが、道路は殆んどが往復4車線、少し広いと往復10車線で圧倒される広さで、なお、渋滞して遅々として進まない。PM2.5は戴けないが。
中国の新幹線で一つ見直したのが定時発車・到着である。直線を走るので揺れも少なく最高時速309km(多分、制限時速310km内)での安定走行だった。

三宅さんは地図おたく?

三宅さんの地図をベースにした研究熱心さは半端なものではなく四六時中地図と睨めっこして、当地の産業とその所在地を確認や、我々が今どこにいるか? 等々の確認をしていた。
三宅さんは瀋陽の東南の本渓の出身という。

女性の同行者が7人も!

今回のツアーは女性の同行者が7人もそろった。それぞれ個性的な方ではあったが、亭主とはそこそこ距離を置いて皆さんと付き合ってくれた。一番の見どころはレストランでの料理に対する識見ぶりである。材料、味付けは勿論のこと、出汁や包丁の入れ方、皿の使い方、等々、話題が多く楽しかった。

飲む人も飲まない人も

WAP奥川さんと現地の選択がよく、毎回変わる店ごとの特徴に舌鼓を打ちながら賑やかに団欒した。日替わりビール、紹興酒、白酒の痛飲!話題豊富!
すばらしかったね!

満鉄病院3兄弟

野澤さんが奉天満鉄病院で1939年に生まれ、川端さんが新京満鉄病院で1945年に生まれている。
ガイドの劉毅さんが大連満鉄病院で1980年のサル齢 生まれだそうで、図らずも3人は満鉄病院生まれの3兄弟である。

劉毅さん

瀋陽の空港のチェックインには間があった。
“独身なの?”
“日本の女性と結婚したら? 日本語もうまくなるよ!”
という女性陣の質問の集中砲火に劉さんはたまらず白状した。
日本留学した時に千葉の宿舎で、中国人の騒々しい慣性を改めるよう注意されたことから知り合った日本女性が、恋人に発展して今も付き合っていると。
千葉出身の彼女は、現在、福岡で仕事をしている。
先方の両親に2017年までに結婚すると約束させられている、とのこと。

ボクのセンチメンタル・ジャーニー

小学4年の1学期に新京で終戦になった。当時の住居や学校へは行ってみたいと思いつつ99%無理だと諦めていた。
夕食後、ホテルへ帰ってからお許しが出て、ガイドの宗さんが同行してくれることになったが、タクシーが来ない。ついに、宗さんが仲間の王さんを呼び出して連れて行ってくれた。
中央通りを駅に向かって走り、新京神社(今は幼稚園)から長春ヤマトホテルの前を右折して日本橋通りへ入り、満鉄病院の前を通過して室町へ入る。
ボクの通った旧室町小学校は、長春第四十九中学校となって同じ場所にあった。
この辺りは町の中心で地価が高いせいか全く再開発されずに日本時代の建物が住まず、壊さずの廃墟として残っていて、ボクの家も辛うじて確認できた。
歩行者天国になっている吉野町や八島通り、ダイヤ街、児玉公園、今も営業している旧・三中井百貨店、等々、記憶の中の建物は形を変えてそのままにあった。
ガイドさんの好意でボクの想い出旅行は無事終わった。感謝!

島 亨


SSIS文化活動委員会追記

訪問記に加えることはほとんどありませんが、特筆する点をまとめてみました。

女性の参加

7名の方に参加いただきました。グループが華やかになり、彩り豊かになりました。和らいだ雰囲気で名所見物、食事を楽しむことができました。

日中関係

厳しい場面に直面する可能性も危惧されましたが、そのようなことは一度もありませんでした。(訪問地域が旧満州地域であったことが理由かも)

中国の人たちの行儀

新幹線のなかは我が国より静かくらいで、ビールなどのアルコール類を飲んでいる人は見当たりませんでした。(午前中の列車でしたが)

参加された方の若さとタフネス

グループのメンバーリスト(平均年齢74.2歳)を見て現地の旅行社が無事に日程消化できるか心配したと、旅行最終日にガイドが打ち明けていました。5日間の旅行中、朝から晩まで毎日中華料理でしたが最後まで食欲を落とした方はいませんでした。又、集合時間には毎回定刻までに全員がそろったことにも、ガイドが感銘していました。

次回研修旅行

訪問希望先として、フィリピン、スリランカ、マレーシア、ミャンマー、ロシア(一昨年、都合で参加出来なかった方の希望)などがあげられました。
有意義かつ楽しい企画を立てますので、期待していてください。

(野澤滋為記)


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