一般社団法人半導体産業人協会


2016年秋季研修旅行・東北地方報告

2017年2月6日更新

半導体産業人協会(SSIS)文化活動委員会主催の秋季研修旅行は、従来は海外各国を訪問し、産業発展の状況視察、半導体や電子産業関連などの工場見学を軸に実施してきた。過去五年ほどは韓国、ベトナム、ロシア極東、台湾、中国東北などを訪ねた。今年の訪問先は会員への事前アンケートの結果、海外研修は一休みして、以下の目的を軸に国内東北地方訪問となった。第一に、東日本大震災から5年を経過したいま、石巻、気仙沼港など被災地を訪ねて、犠牲になられた方への哀悼の意を表し、復興状況を視察することにより防災の意識を高めること、第二に、6年前の春季工場見学会で訪ねた地域の状況、特に東北大学未来科学技術共同研究センターにて親しく研究内容の説明を頂いた故大見忠弘教授と故高橋研教授の研究室を再度訪問して、現在の須川成利教授、白井泰雪特任教授、斉藤伸教授から、その後の研究成果の説明をうける。

これらの目的に副うべく東北方面にて10月17日から19日までの2泊3日で開催した。参加者は5組の夫妻の女性5人を含む16名で(8.項参照)、17日午前10:30に仙台駅に集合して、全行程を田山敏文運転手と高橋純ガイドの貸し切りバスで移動、19日正午過ぎに仙台駅へ戻って解散した。初日は石巻から女川を経て南三陸町の太平洋を望む温泉「ホテル観洋」で一泊懇親、二日目は気仙沼から陸前高田をへて中尊寺を見学して近くの厳美渓温泉「いつくし園」泊、最終日午前は東北大学を訪れた後、正午過ぎ仙台駅にて解散した。幸いにも三日間ともに天候には恵まれ、仙台湾沿岸から三陸海岸の想像を絶する津波被害の実態と地域ごとに特色のある復興の視察、温泉を楽しみながらの懇親、最先端科学技術の見学など有意義な研修旅行であった。

1.石巻市

宮交観光サービスのチャーターバスで10:45に仙台駅出発、11:50に石巻に到着、石巻駅近くの寿司・割烹「竹乃浦」で新鮮魚介の昼食の後、石巻駅で石巻市役所員・観光ボランティアの堀川氏をバスに迎えた。列車到着遅れと待って迎えた人たちもここで合流した。堀川氏の案内で石巻市内を巡回した。石巻漁港を擁する市中心部(人口11万人余)の高台を除くほぼ全域が津波に襲われ、このエリアだけで2038人が死亡、377人の行方不明者を出すという東日本大震災最大の被害を受けたとのこと。
石巻市役所前を通って石巻工業港の傍にある石巻港湾合同庁舎を目指して西へ向かった。途中の国道398号線の直線道路から見える風景は雑草と建物の基礎だけが残る壊滅地帯の広がりであった。

―石巻駅前風景ー

―車窓から見えた新石巻合同庁舎ー

石巻港湾合同庁舎は震災で被災、再建を進めていた新庁舎が完成しており、516人収容可能な津波避難ビルとして認定され、5階は防災備蓄倉庫で、国の出先機関のトップを切って入居した石巻海上保安署が4階で業務を開始していた。鉄筋コンクリート5階、延べ床面積約4170㎡、防災対策ビルとして1階はエントランスホールとして執務室は設けず、建物支柱だけの空間で、支柱の上端には大震災で押し寄せた津波の高さを示す表示板があり、この高さ以下の津波はこの空間でやり過ごすようになっている。

石巻湾に沿って進む途中、大きな被害を受けながら、2012年8月に完全復興を遂げた日本製紙石巻工場の威容、旧北上川にかかる大橋からの上流にある石ノ森萬画館、津波に襲われて流されてきた自動車がぶつかった火事で、校舎が全焼した門脇小学校など、眺めながら説明を聞いた。同校は校舎が全焼する中で学校の誘導で高台に避難して児童300人が無事であった。

石巻漁港にある石巻魚市場も壊滅的な状況になったが、4ヶ月後にはテントで復旧、その後仮設の建物を使っていたが、4年半ぶりにすべての施設が完成、“世界最大級”の魚市場全体の運営が始まった。海に面している部分の長さ880m四方を壁で覆い、魚の鮮度維持のための管理が施されている。効率的に水揚げできるよう漁法ごとに荷捌きゾーンが分けられていた。

続いて門脇小学校の見えるところまで引き返して、「がんばろう!石巻」の看板のある場所を訪れた。沿岸部の門脇町・南浜町地区は約1700所帯が住宅街で、震災直後は大津波の襲来に大規模な火災が追い打ちをかけ、粉々に砕け散った家、焼け焦げた車で凄惨な情景であったと。

今は家一つない雑草と生活道路の残る野原が広がっていて、津波の水位の高さ6.9mを表示するポールが立っており、犠牲者を悼む場となっている。

ここは40ヘクタールの震災復興記念公園として整備され、緊急時の避難場所となる築山も造成される。石巻市街地の復興は土地の嵩上げ工事によって行われている。

―新しく完成した石巻魚市場ー

―「がんばろう!石巻」看板前の参加者一同ー

―6.1mの津波水位を示す
ポールー

2.女川町

石巻を得出て、小一時間で女川駅前に到着した。途中車窓から見た鉄骨鉄筋3階建て巨大な冷蔵冷凍施設は、カタールフレンド基金の支援を受けて完成、2012年10月にオープンし、震災によって失われたサンマ水揚げ量日本一を取り戻す展望が開けた。

女川町観光協会広報担当の沢辺和子さんの案内を受けた。女川はリアス式海岸特有の地形で、海岸線近くまで山地が迫り、狭い平地に商業地や住宅地が密集していた。津波は一瞬のうちに町全体を呑み込み、住宅の約7割が被害を蒙り、町人口の1割が失われたとのことであった。

女川町の復興では、企業の年輩社長や60歳以上の人は口を出さないが責任は持つということで、30代から40代の若い世代による復興連絡協議会を立ち上げ、構想力に富んだ斬新な復興グランドデザインによる街づくりが着々と進められているのには感銘を受けた。

女川駅前から女川湾岸まで「シーパルピア女川」という商業施設中心の綺麗に整備された公園風の街が完成して営業していた。住宅街は、山の斜面を切り開いた高台につくる計画で、山の方を眺めると海の見える山の斜面を掘削して棚段を造成する工事が方々の場所で進行していた。

女川駅前を午後4時過ぎに出発して「きぼうのかね商店街」を回ってから三陸海岸に沿って移動、午後5時半頃南三陸町の「ホテル観洋」に到着した。同ホテルは太平洋に向かって開けた志津川湾に面しており、眼下に太平洋を眺望できる温泉入浴を堪能、夜の懇親会では、今回ご婦人5名の参加もあり、海の幸の酒肴による夕食を味わいながら9時過ぎのお開きまで楽しくにぎやかに懇談した。

―駅前商業施設街「シルバーピア女川」ー

南三陸ホテル観洋ー

3. 南三陸町

翌朝、語り部の千葉由理子さんが同乗してホテルを8時に出発。南三陸町では、震度6弱の揺れと最大20m以上の津波が襲来して、人口17,000人のうち800人が死亡した。地震直後からこのホテルを目指して避難してきて来た住民も多く、避難所として大きな役割を果たした。千葉さんご自身も近くで仕事をしていたが何とかこのホテルにたどり着いて救われたそうである。

先ずは、現在は公民館として使われている志津川中学校を訪ねた。前方の女川湾から押し寄せる津波の水位よりはるかに高台にあるこの中学校の校庭で、人々は寄せる津波を見下ろしていたが、谷合を進んで山にぶつかって反射した津波が校庭の背後から押し寄せて呑み込まれた。押し寄せる津波は地形によって自在に変化し、谷間が切れると山の斜面に沿って高くまで這い上がり、森の杉や檜の枝のない幹の部分が、津波の痕跡としてかなりの高さまで白くなって残っていたのには、強く印象付けられた。

南三陸町防災対策庁舎は鉄骨のみの姿で佇む無惨で異様な姿であった。遠藤副町長ら最後の職員が陣取って、繰り返し「高台へ避難してください」と防災無線で呼びかけ続けていたが、この3階建ての庁舎の屋上を2mも上回る津波に襲われた。マイクで避難を呼びかけ続けていた職員の遠藤未希さんも、津波が押し寄せる寸前に上司が代わって彼女を屋上へ避難させたが助からなかった。屋上に避難して、アンテナや手すりにしがみついて助かったのは30人の職員中8人だけだった。

被災して街並みの消えた街路と雑草だけの土地は、かなり高い盛土による復興が進められていたが、まだまだ年月がかかりそうに見えた。

現在公民館として利用の
旧「志津川中学校」

鉄骨姿で残る南三陸町防災対策庁舎

消滅した街の復興のための盛土

4.気仙沼市

南三陸町を10時に離れて、10時半に気仙沼港に着いた。ここでの語り部は吉田さなえさんでした。気仙沼市の被害の特徴は、市域における津波の高さは最大20mを記録し、石油タンクが破損・流失したことにより、流出した石油に引火して内湾のみならず、大島まで広がり、約1週間もの間燃え続けて、死者・行方不明者は1,350人以上で、住宅被災棟数は約16,000に及んだことである。

まず驚かされたのは港の内外を分ける復興防壁であった。鉄骨の組合せをコンクリートで覆う構造で、何とも見栄えのしないもので、町中からは一切海が見えないようであった。
これは気仙沼で決められた復興計画ですかと尋ねてみると、市民も好ましくないと思っているが、政府が決めた施策なので、否応ないとの吉田さんの答えだった。
一方では、一部完成して震災時に有効に機能した三陸縦貫自動車道路は全線整備をする方向で建設が進んでいた。また、港の傍らでは、大島地区と本土を結ぶ大島架橋の橋脚建設工事が進めあれて、巨大な構造物の姿があった。

気仙沼魚市場は震災による地盤沈下と一部津波による流失の被害を受けたが水産庁による嵩上げ工事と新しい市場の建設で復興した。震災直後は一時死体置き場にもなったとのこと。海の市ミュジーアムは魚市場に隣接した市内最大の物産観光施設である。震災時の状況や復興の歩みが分る。ここで昼食、見学をして気仙沼を後にした。

気仙沼港内での参加者一同

気仙沼港の内外を分ける
鉄骨コンクリート防壁

復興した魚市場隣接の海の市

5.陸前高田市

奇跡の一本松で有名な陸前高田市には午後1時前に到着した。震災で死亡者・行方不明者・負傷者を合わせて計12,400名以上の犠牲者が出た。うち死亡者は1,600人近くで、その9割以上は津波による溺死であることが確認されている。当市では復興の土地嵩上げ工事が全長3kmにも及ぶ土砂運搬用ベルトコンベアが用いられて、既に広い台地が造成されて、運搬が終わった長大なコンベアの姿が車窓から見えた。
奇跡の1本松は高田松原にあった約7万本の松の内残った1本で、残念ながら枯れてしまったが、モニュメントとして整備されて復興のシンボルとなっている。また、震災遺構として残っている「道の駅 高田松原」敷地内からも眺めることができる。

陸前高田市の奇跡の一本松

情報館展示の一本松のオブジェ

高田松原・道の駅の敷地内には、「慰霊碑」や「復興まちづくり情報館」もあり、震災について伝える場所となっており、一本松の根が展示場オブジェとして、幹が下向きで根が上になって飾られている。
また、この敷地の傍のガソリンスタンドの看板には津波の水位を示す15.1mの表示が見え、その高さに圧倒される。

ここを午後1時半ごろ出発、三陸海岸を離れて車窓から紅葉の猊鼻渓を眺めながら今泉街道を一路平泉へ向かい、中尊寺には午後2時半頃着いた。

高田松原・道の駅と慰霊施設

15.1mの津波水位を示す看板

6.中尊寺及び厳美渓

中尊寺は、奥州藤原氏3代のゆかりの平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた金色堂をはじめ多くの文化財を有する世界遺産であることは、ここで改めてこれ以上詳細に述べるまでのことはないであろう。

中尊寺山門

バスを降りた我々は、緩やかな参道の月見坂を上って、両側にある本堂、大日堂など数あるお堂を各自思い思いに巡りながら金色堂を拝観した。現在の金色堂は1962年に造られた鉄筋コンクリートの覆堂内にあり、外からは金色に輝くお堂と仏像などは見えない。これ以前約500年間金色堂を風雨から守ってきた旧覆堂は100mほど先に移されていた。

覆堂中に入るや写真などでよく見る皆金色の金色堂と金箔の仏像そして精緻な細工の工芸品を鑑賞することができた。
これらを構成する象牙などの材料は遠く中東やアフリカからもたらされたものもあると聞いていたので感慨ひとしおであった。

金色堂覆堂から見た中尊寺境内

金色堂が納まる覆堂

午後4時過ぎに中尊寺を発って厳美渓に4時半に到着。切り立った岩肌の間を流れる渓流の眺めを楽しんで、集合写真を撮り、ここから歩いて10分足らずでホテル「いつくし園」に着いた。
ここでも温泉と当地の酒肴を味わいながら、各人のショートスピーチ、特に参加されたご婦人の本旅行に参加しての感想などを興味深く聞きながら、楽しく懇親を深めた。

翌朝散歩がてら厳美渓に懸る橋上からの眺めを観賞した。
いつくし園を午前8時に出発、一ノ関から東北自動車道を南下、途中車窓から青空を飛翔する雁行が見えた。

午前8:40に長者原サービスエリアで休憩、そこにある「化女沼」を見物。この沼は灌漑用のため池として維持され、オオハクチョウをはじめ水鳥の越冬地として、「ラムサール条約湿地」に指定されている。

厳美渓を背にした参加者一同

朝の「いつくし園」ホテル

夕暮れの厳美渓谷

7.東北大学

東北大学には10時に到着。最初に東北大学未来科学技術共同研究センターの未来情報産業研究館を訪ねた。先ず始めに、この研究拠点のリーダーである須川成利教授から、最新のイメージセンサーの性能追求と実用化開発の研究成果のデモンストレーションによる解説を受けた。

「第1のデモは、高感度・広ダイナミックレンジ・イメージセンサーで、ダイナミックレンジ5ケタ以上、低ノイズの1電子以下微弱光から広いレンジでの撮影が可能で、普通のカメラとの比較が示された。背景が明るいところに置かれた物体の撮影では、通常のカメラでの像は真っ黒で何を撮っているかわからないのに、開発されたセンサーを用いたカメラでの像は明るく物体の姿を映し出していた。

第2のデモは、高速イメージセンサーで、毎秒1000万コマの撮影速度と、256コマの記録コマ数、10万画素数を有する高速CMOSイメージセンサーで、カーボンファイバーの破断、放電現象、透明積層材と樹脂球の高速衝突、がん細胞に近接する微細気泡の超短波による崩壊、風船の破裂、テニスボールをバットで打った時のボールの変形など、プロセスの詳細が見事に映し出されるのには感心した。余興で参加者の一人、高校時代に甲子園出場経験のある内山雅博さんが、テニスボールの打者に名乗りを上げて試そうとしたが、残念ながらボールにうまく当たらず空振り同然で変形の映像は撮れずに終わった。

続いて、白井泰雪特任教授の案内でクリーンルームを見学した。ここでは、半導体製造装置の開発、プロセス技術の研究、超高速デバイスの開発などが行われており、新世代洗浄技術に挑戦しているチェンバーの開発、ステンレスパイプの不働態膜同時形成溶接技術、マイクロ波冷気低電子温度高密度プラズマの装置などの説明を受けた。

須川成利教授の高感度イメージセンサーのデモ

白井泰雪教授によるクリーンルーム見学

最後に、東北大学工学研究科青葉記念会館へ移動して、窒化鉄ナノ粒子材料研究開発のプロジェクトリーダーの齊藤伸教授の研究室を訪ね、同研究室助教の小川智之博士の案内で、極くありふれた元素である鉄と窒素から構成される準安定強磁性窒化鉄相(Fe16N2)の磁石バルク体化の研究状況を見学した。

グローブボックスやスパッタリングなど資料作成やその評価用の装置が所狭しと置かれている研究室内を巡りながら、レアアースを使わない磁石・モーターの実用化に向けて、強磁性窒化鉄の粉末を実用量単位で創製すること(写真参照)、及びその5mm程度のバルク化が可能になっているとの説明を受けた。

前回2010年に訪れたとき、5年後くらいには実用化したいとの故高橋研教授の説明を思い出した。今後は電気自動車向けなどの実用化ために、さらに大量合成を目指しているとの力強いメッセージがあった。

小川智之助教が示す
高磁性窒化鉄の粉末

研究室装置の一部

上記研究開発グループでの、故大見忠弘、故高橋研両教授の遺志が受け継がれて着実に成果をあげている現状を拝見することができて、東北大学の大変有意義な見学を終えた。

女性グループはバスガイドに案内されて、別途青葉城や護国神社の見物を楽しんだ。

8.参加者16名(敬称略、順不同)

相原 孝、池野成雄、池野冨美江、石川静香、 石川則子、内山雅博、内山ちよの、神山治貴、金原和夫、島 亨、島 恵子、
竹下晋平、野沢滋為、野沢恭子、 真鍋研司、山崎俊行、高橋令幸

9.おわりに

本見学会でお世話になりました東北大学の須川成利教授、白井泰雪特任教授、齊藤伸教授、小川智之助教はじめ、宮交観光のバスの田山敏文運転手と高橋純ガイド、各地の津波被災と復興の状況を話してくださったボランティアと「語り部」の方々、その他すべての関係者の方々に、感謝とお礼を申し上げます。

SSIS文化活動委員 髙橋令幸


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