一般社団法人半導体産業人協会


第三回鎌倉散策の会
―鎌倉七福神を巡る―

2017年1月

はじめに

正月の鎌倉の大混雑も一段落し、前日までの肌寒い気候から一転して快晴で暖かく絶好の観光日和となった。

北鎌倉駅に集合ということであったが、前回の鎌倉と違い小さな 駅でもあり今回は定刻に全員集まり幸先よくスタートできた。

第三回鎌倉散策の会の案内

日時
1月10日(火) 午後0時30分集合
集合場所
北鎌倉西口 改札口を出た所
ルート
北鎌倉駅 ⇒ 浄智寺(布袋尊)~鶴岡 八幡宮(弁財天)~宝戎寺(毘沙門天)~ 妙隆寺(寿老人)~本覚寺(恵比寿)~ 長谷寺(大黒天)~御霊神社(福禄寿)
行程
北鎌倉から御霊神社まで4.5km 程度だが、途中鎌倉から長谷まで江ノ 電に乗ったので3.5km位
懇親会
『マッチポイント』鎌倉駅から5分

参加者(敬称略)

柏木 正弘、島 亨、清水 秀紀、竹下 晋平、 野澤 滋為(散策のみ)、橋本 浩一、日高 義朝、 藤井 嘉徳、眞鍋 研司(9名)

【七福神】とは

七福神信仰が盛んになった近世中期以降、恵比 寿(蛭子)・大黒天・毘沙門天・弁財天・布袋・福禄 寿・寿老人の七神をいう。それまでの仏教・民間信仰などで福神として信仰されていたものが、経典の 「七難即滅、七福即生」や竹林の七賢などにならい、 室町時代に「七」に整えられたもの。


<散策路に沿って>

北鎌倉駅

1889年大船と軍港を作った横須賀間に横須賀線が開通 したが、その際、円覚寺の境内を削って線路を作った。本来、鎌倉街道が円覚寺の境内を横切っていて、道の両側に円覚寺の門があってその石組みが両側に残っている、それを迂回する為に「馬道」という道が造られ今も残る。門前にある白鷺池も横須賀線によって半分位に縮小された。

1)《布袋尊》浄智寺

創建は1281年 鎌倉五山第四位(鎌倉五山は順 に、建長寺、円覚寺、壽福寺、浄妙寺である。)
鎌倉街道から右に折れたところに小さな池があり石橋が 架かっている。その傍らに鎌倉十井の一つ、「甘露ノ井」がひっそりとある。この湧き水が甘い味だったことからそう呼ばれた。鎌倉には湧き水が多くあるが中でも名水と云われるのが鎌倉十井である。その先に、苔むした鎌倉石でできた階段がありその先に山門がある。お正月が過ぎたばかりの為か我々の他は誰もおらず、静寂と木々につつまれ素晴らしい散策の出だしであった。山門を過ぎると二階に華頭窓の ある唐様の鐘楼門があり扁額に『山居幽勝』。階上に1340年銘の梵鐘がある。その先の右側に本堂・曇華殿があり、木造三世仏坐像が祀られている。三世仏とは、それぞれ過去、現在、未来を意味する阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒菩薩であり室町時代の作で県の重要文化財。境内の先を右に回り岩に空けられたトンネルを潜った先に七福神のひとり布袋尊があった。お腹に触ると福が授かるという事でそこだけぴかぴかに光っていた。当然我々も撫でてきたのはいうまでも無い。

―浄智寺の三門の前でー

―浄智寺の唐様の鐘楼門―

―本堂・曇華殿―

―布袋尊―

――途中――

ここから先、小袋坂を越えて二人目の弁財天を祀る鶴岡八幡宮にむかうが、途中に足利尊氏を祀る長寿寺、鎌倉五山第一位建長寺、があり、運慶作と伝わる閻魔王を含む十王を祀る圓應寺がある。昔は巨福呂坂と呼ばれ鎌倉七口の一つで建長寺から圓應寺を通る尾根越えの道であったが、今の道は明治になって開かれた。鶴岡八幡宮の手前の山側は「御谷(おやつ)」と呼ばれ、『古都保存法』制定のきっかけとなった「御谷騒動」の舞台。

―建長寺―

鶴岡八幡宮

始まりは、1063年源頼義が前九年合戦に勝利し京都の岩清水八幡宮を勧請したことに始まる。(由比の若宮=元八幡)。1180年源頼朝が鎌倉に入り現在の地に遷座し鶴岡若宮と称した。三の鳥居から海に向かって延びる若宮大路は妻北条政子の安産を祈願し1182年に造らせたもの。中央に一段高い道「段葛」があるが昨年新しく作り直した。

小袋坂の途中から境内に入ると右の少し高いところに丸山稲荷社がある。

―鶴岡八幡宮―

2)《弁財天》 旗上弁財天社 八幡宮の末社

八幡宮に向かって右側の池の中島に七福神のひとり、弁財天を祀る「旗上弁財天社」がある。頼朝が旗上げする際家運長久の守護神として弁財天が現れ霊験があったことから北条政子が建立したとも伝わる。裏手に政子の安産を祈って置いたという石があり安産を願う人がお参りするそうだ。
この池は源氏池と呼び島が三つある。左の池を平家池と呼び島は四つ。三つは「産」で繁栄を、四つは「死」を意味するとか。池には紅白の蓮があり、源氏池は白、平家池は赤(今は混在)。弁財天像は裸形彫刻で衣装をまとう形で今は鎌倉国宝館に安置されているがこの日は休館。

―旗揚弁財天社参道―

神苑ぼたん園

鎌倉八幡宮の源氏池のほとりに回遊式のぼたん園があり、元日から公開される。八幡宮では「正月ぼたん」と呼び島根県の大根島で栽培されたものを正月に合わせて移植するとのこと。特に純白の「貴婦人」が一番人気だとか。他に、赤や紫、黄色のぼたんも素晴らしかった。藁でできた雪囲(風除け)が冬の風情を漂わせている。なお、4月には地植えの春ぼたんが見頃になるそうだ。他に、中国蘇州から贈られた太湖石をそなえた湖石の庭も雰囲気がある。

―ぼたん庭園の「正月ぼたん」と「湖石の庭」―

――寄り道――

八幡宮の鳥居の脇に鎌倉彫の老舗「博古堂」がある。禅宗寺院の仏像の制作のために奈良からきた慶派の仏師達の末裔が現在の博古堂の当主である後藤家という。仏像を初め寺院関係の彫刻を専門にしてきたが、明治維新の廃仏毀釈で職がほとんど無くなり今の様な鎌倉彫を主にする様になったそうだ。鎌倉には沢山鎌倉彫の店があるが、流石に素晴らしい鎌倉彫作品が並んでいた。

興味のある方には是非お勧めします。一味違っている様に思えます。(八幡宮に向かって右側)

3)《毘沙門天》 宝戎寺 天台宗 創建は1335年

開基は後醍醐天皇で、北条一族の霊を弔うため足利尊氏に命じて北条氏の執権屋敷跡に建立させた。最後の十四代執権北条高時は、新田義貞らの軍に攻められ屋敷の裏手で高時他北条一族と家臣が自刃し鎌倉時代は終わりを告げた。寺の本尊は子育経読地蔵大菩薩で三条法印憲円作で国の重要文化財。秋のシロハギで有名で「萩の寺」ともいう。

―宝戎寺本堂と大歓喜天堂―

4)《寿老人》 妙隆寺 日蓮宗

1385年、中山法華経寺の日英を開山とした寺。一帯は鎌倉幕府の有力御家人だった千葉常胤の子孫胤貞の別邸跡と伝えられ、一般に「千葉屋敷」とも呼ばれる。鎌倉における中山門流の中心。第二代の日親上人は室町幕府六代将軍足利義教に「立正治国論」を建白しようとしたが受け入れられず、捕らえられ 拷問を受けた。灼熱の鍋を被せられても主張を曲げなかったので「鍋かむり日親」の偉名。墓地に、広島で被爆した「新劇の団十郎」こと丸山定夫の石碑。

―妙隆寺・寿老人―

5)《恵比寿》 本覚寺 日蓮宗

1436年、日出が創建。もともとここには天台宗系の夷堂があったが、これを日蓮宗に改め、本覚寺とした。二代目住持の日朝が後に身延山久遠寺の住持になった際、日蓮の遺骨を分骨した。これがきっかけで「東身延」と呼ばれるようになった。眼の病気を治してくれる寺として知られ「日朝さま」の愛称で親しまれている。元の夷堂は源頼朝が幕府の守り神として建立した。境内には、刀工として有名な正宗の墓と石塔がある。

―本覚寺と本えびす―

6)《大黒天》 長谷寺 浄土宗(単立)

736年創建とされ奈良の長谷寺と同じ徳道上人が開山。
本尊の十一面観音菩薩像は、奈良の長谷寺の尊像と同じ一本のクスノキの霊木より彫られたといわれ、9.18 mある像高は木造では日本最大級。観音堂、阿弥陀堂、大黒堂、経蔵、鐘楼などの堂宇が建ち、見晴台からは鎌倉の町と海が一望できる。宝物館の十一面懸仏、銅造梵鐘は国指定重要文化財。久米正雄の胸像、高浜虚子の句碑、高山樗牛の住居跡がある。

―長谷寺・大黒天―

7)《福禄寿》 御霊神社 祭神は鎌倉権五郎景正

創建は平安時代末期。景正は平氏一門の武士で鎌倉武士団を率いて湘南地域一帯を開拓した開発領主。1083年、奥羽地方の豪族清原氏の内紛に介入して出兵した源義家に従って出陣し活躍した話が、「奥州後三年記」にみられる。源義家は頼義と平直方の子で、八幡太郎義家。鎌倉五平氏(大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉)を祀っているため御霊神社と呼ばれた。別名「権五郎神社」とも。九月の例祭で、湯立神楽の後、伎楽面や田楽面をつけた面掛十人衆が坂ノ下を練り歩く、面掛行列は県指定無形民族文化財

―御霊神社・福禄寿の面―

懇親会

鎌倉駅西口から5分位の『マッチポイント』にて5時から7時まで、懇親会を開催した。
出席者は、柏木正弘、清水秀紀、日高義朝、藤井嘉徳、 竹下晋平、橋本浩一、島 亨、眞鍋 研司 の8名
4300円でワイン飲み放題で予約し、比較的高齢者が多いので「料理は量より質で」と注文。相模湾の魚の刺身や鎌倉の野菜などおいしかった。ワインも4000円くらいのものだそうで良かった。

爽やかな好天の中、5時間ばかり歩いた後で、話題もワインもたっぷりの和やかな懇親会であった。

幹事:眞鍋 研司

メール:kenshi_manabe@yahoo.co.jp

―懇親会スナップ―

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